過去の事実は変えることはできない
でも、未来を変えることはできる
事実から考察、そして学びへ
教訓にならなかった、と言わせないために
教訓からの学びが深まります
児童108人中74人・先生10人が犠牲となった
震災遺構・石巻市立大川小学校
石巻市立大川小学校の立地
海から3.7Km、川の横に位置
津波は、家、車、土砂、そして、海岸にあった数万本の松等を巻き込んで北上川を遡ってきた。
それらが新北上大橋に堆積し、水位が上昇。一気にあふれ出た。
流れをせき止めた分、津波は威力も波の高さも大きくなった。橋は4分の1ほど流失、堤防も決壊。
その後、陸を遡上してきた津波も到達し、
川からの津波とぶつかり、校庭で渦を巻いた。
校舎内の時計は、すべて15時37分で止まっている。
津波前の校舎
津波到達から2時間後
東日本大震災発生から津波到達までの51分間の出来事
2011年3月11日 14時46分から15時37分(時系列)
14:46 東日本大震災発生
大地震発生 震度6の揺れが約3分間続いた
14:49 6mの大津波警報
校庭避難 校舎から出る際、先生が「津波が来る、山に逃げるぞ」と声をかけたので、山に向かった児童もいた
しかし、まずは校庭に整列
14:52 大津波警報 ラジオ・防災無線から緊迫した放送
スクールバスは、すぐ出られるように待機していた
15:00頃 地域の人や児童、迎えに来た保護者も山への避難を進言
15:25 石巻市広報車が高台避難を呼びかけながら通過
15:32 富士川が越流
北上川に並行した支流・富士川が越流
15:36 移動開始。狭い通路(※1)を通り、行き止まりの三角地帯へ向かった
15:37 津波到達(地震から51分後)
北上川(一級河川)が越流し、学校に津波到達
その後、陸を遡上した津波も到達し、校庭でぶつかって渦を巻いた
震災前の日常の出来事
上記は震災後の写真
以下、番号①~⑫順に掲載
①釜谷交流会館
現在同じ場所に大川伝承館(管理棟)が建っている
②釜谷の街並み
芝生の間のラインは
一軒ごとの間隔
③子どもたちが校庭から
避難したせまい通路(※1)
フェンスの切れ目は70数cm
矢印をつけた箇所
④自転車置き場
アスファルトの部分
支柱の部分は白いブロック
⑤校門
⑥アセンブリホール
⑦低学年棟
⑧指揮台(震災後の写真)
あの日、この前に
集合・整列
⑨中庭
⑩2階の天井に波状痕
(震災後の写真)
⑪体育館への通廊
(ガラス張り)
ガラスのトンネルを通って体育館へ
⑫野外ステージ
校庭脇の斜面は崩れないように土留めしていた場所が4段あるあり、授業や写真撮影で使用していた
体育館裏の斜面は傾斜が緩やかな斜面(傾斜角度9度)で、3月にはシイタケ栽培の体験学習が行われていた
震災前、児童たちがが森植樹活動をしていた「通称・バットの森」
大川小学校から数百メートル雄勝の方に進み
自動車工場の脇に登り口
通称・バットの森の看板(2022年2月27日撮影)
校舎横の高台から眺め
児童の写生場所
校舎横の斜面からの眺め
児童たちが原木シイタケを育てていた場所
考察
「命を守る」を最優先に考え判断し行動する
平時から危機管理マニュアルを作成し、避難場所・経路・方法を決め避難訓練をする
地震がきたら津波がくる、と想起する
津波避難は、高い場所への避難を基本とする
津波警報による津波の高さは平均値、地形によっては2倍以上の高さの津波がくる、ことを想像する
リアス式海岸、入り組んだ入り江、都市部でも湾や運河沿いの高層ビル群など
津波は陸上よりも早く川をのぼることを忘れない
川/河や運河/水路には障害物がない分、早くやってくる
河口付近は陸からと河/川からの両方から津波がくる
学び
こどもたちの命を守るのは事前の備え
大川小で起こってしまたことを教訓とし、大切な命を救うために活かしていく
未来をひらく8つのメッセージ
① 命を救うのは「行動」
② 念のためのギアを上げる
③ 当日ではなく平時を問う
④ 何のためのマニュアルか
⑤ 命が見えなくなっていないか
⑥ 学校の根源的義務
⑦ 向き合う難しさ
⑧ 失う前に気づく
大切な言葉
「もしも」よりも「いつも」
「連携」よりも「ともに」
「ルール規則」よりも「柔軟臨機応変」
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