① 校舎の中はどうしてきれいなのですか?

ずっと、そうじを続けてきました。


津波によりガレキに埋もれた校舎は、震災間もない頃からずっとそうじが続けられてきました。全国のボランティアの皆さん、児童・先生の遺族、卒業生、以前大川小に勤めていた先生方・・・。そうじ、花植え、草取り等、いろんな人の手により校舎はきれいに保たれてきました。(現在は石巻市が管理)

ここがどういう場所であるべきか、校舎が語りかけています。

② ハザードマップは信用していいのでしょうか?

判決はハザードマップの限界を指摘し

見直しと適正化を推進しています


ハザードマップには「浸水の着色のない地域でも、状況によって浸水するおそれがありますので、注意してください」と記載があります。「安全マップ」ではありません。当時のハザードマップによると大川小学校は津波浸水予想区域ではありませんでしたが、600m離れた場所には到達が想定されていました。北上川のすぐそばの大川小は避難すべきでした。どんなに科学が発達しても想定には限界があり、誤差も生まれます。ハザードマップは絶対ではありません。区域外が安全だと断定するものではないのです。

ハザードマップは命を守るために有効に活用していかなくてはなりません。

東日本大震災発生時のハザードマップ


釜谷地区は、浸水するものの大川小学校には津波が到達しないので避難場所に指定されていた。⻑⾯のトレーニングセンターも同様。

③ あの津波は予想できたのでしょうか?

2003年から2033年までに99%の確率でM8.0の宮城県沖

地震が発生する想定がありました。2004年3月宮城県防災会議


99%の確率という想定をうけ、県・市は再三にわたり、各校に防災体制の見直しを指示しました。2009年には学校保健安全法が改訂され「各校の実状に応じた防災計画の策定」が明記されました。2010年2月8日、石巻市教育委員会は各校に対し、4月30日まで危機管理マニュアルを改訂するよう指示しています。その見直しによって東日本大震災の時に適切な避難ができた学校もあります。

裁判では、想定がありながら事前の備えが不十分だった点が問われたのです。

④ 犠牲が大きかったのは大川小だけですか?

学校で多くの子どもが犠牲になったのは大川小学校だけです。


東日本大震災では関連死を含めると2万人以上が死亡・行方不明となりました。大川地区でも多くの方が犠牲になりました。宮城県では183名の小学生が犠牲(死亡・行方不明)になりましたが、学校施設管理下(学校の敷地内に教師が一緒にいる状態)で犠牲を出したのは大川小学校だけです。過去の災害においても例がありません。



「逃げたけど、津波は来なかったね」それでいいのです。


多くの学校は、津波到達のだいぶ前、あるいは結果的に津波が到達しなくても、念のために避難しました。一方で、備えが不十分で避難しなかったが、津波が到達しなかったので助かったという学校も少なくありません。ちょっとしたことで結果は逆になっていたかもしれません。「備えがずさんだった」だけで済ませるべきではありません。特別な場所で起きた特別な出来事ではないのです。なぜこのような状況になったのかをわが事に置き換えて考えなければなりません。

私たちには地震も津波も止めることはできません。

重要なのは、津波が到達するかどうかではなく、避難するかどうかです。

⑤ あの日命を救う方法はあったのでしょうか?

避難するための「時間」も「情報」も「手段」もありました。


地震から津波が到達するまでに51分間ありました。防災無線やラジオも大津波警報を伝えていました。それを聞いて迎ええに来た保護者も山への避難を進言しています。目の前には体験学習で登っていた緩やかな傾斜の山があります。数分歩けば全校で植樹をしたバットの森もあります。スクールバスも方向転換をすませ、避難する準備ができていました。山への避難を訴えた児童もいました。数名は途中まで山に向かいましたが、整列のため校庭に戻されました。救うための要素はありましたが、避難行動につながらなかったのです。

防災は時間・情報・手段を判断・行動に結びつけることです。

⑥ なぜ50分間も校庭にとどまったのでしょうか?

「逃げるべき」と「ここで大丈夫」

両方の意見がまとまらず

時間が過ぎました。


「逃げるかどうか」がなかなか決まりませんでした。山へ避難という意見もありましたが、警報のサイレンが鳴り響く緊迫感の中、怯える子どもたちを安心させたい、山は崩れるかもしれないなどの配慮もあったのかもしれません。

山へ行こうと訴える子ども達の声は聞き入れてもらえませんでした。避難することが決まったのは市の広報車が避難を呼びかけて通過した15:25頃です。

そこから「どこへ逃げるか」の検討になりました。

話し合いの結果、15:36頃に新北上大橋のたもと(三角地帯)に向かうことになりましたが、津波は橋からあふれ、向かった方向から襲ってきました。

意思決定の遅れが、判断ミスにつながったのです。

災害時の動きについて共通理解できていれば

もっと早く行動できたはずです。


早く行動を開始した学校の多くは「逃げるかどうか」「どこへ逃げるか」を話し合っていません。決まっていたからです。「津波警報の時は〇〇へ避難」と決まっていて、それをみんなが知っていれば、迷うことはなかったでしょう。

「津波が来ないから大丈夫」は「安心」ではなく「油断」です。

「津波が来ても大丈夫」な備えでなければなりません。

⑦ なぜ津波が襲ってくる川に向かったのでしょうか?

避難の意思決定が遅れ、津波が迫り

冷静な判断ができませんでした。


避難を始めたのは津波到達の約1分前。校庭を出るときに通ったのは自転車置き場脇の細い70数cmのフェンスのすき間です。一列でしか通れません。その後、民家の裏の山沿いの細い道を進み、行止りになりました。先頭の子が150mほど進んだところに川から津波が襲いましたたとえ1分でも山に走れば助かったはずです。なぜ川の方向へ進んだのかは様々な理由が考えられますが、どれも憶測です。いずれにしても、サイレンが鳴り響く中、パニックに陥り、正しい判断ができなかったのです。

訓練には「本番」があります。

とるべき行動を、あらかじめみんなで確認していた学校は

パニックになる前に避難しています。

指揮台前に整列し、待機が続いた

校庭から自転車置き場脇の狭い

(幅約70cm)通路を通って移動

150m、1分間、津波の方向に1列で移動(濃い灰色の線が実際の通路・幅70cm)

⑧ 大津波が迫る中の判断ミスは仕方がないのでは?

高裁判決では当日の判断・行動ではなく、事前の備えが問われました。


一審では当日の行動が問われましたが、判断ミスにつながったのは平時における備えです。教育委員会の指示を受け、作成したマニュアルには「津波の有無を確認し、近隣の空き地か公園に避難」と書いてありますが、近くには空き地も公園もなく、職員間で共有されていませんでした。

学校保健安全法第29 条(抜粋)


児童生徒等の安全の確保を図るため、当該学校の実情に応じて、危険等発生時において当該学校の職員がとるべき措置の具体的内容及び手順を定めた対処要領を作成するものとする。要領の職員に対する周知、訓練の実施その他の危険等発生時において職員が適切に対処するために必要な措置を講ずるものとする。

近くには空き地も公園もなく、職員間で共有されていませんでした。


石巻市教育委員会の指示を受け、学区内に海や川のある学校にはすべて津波の際のマニュアルがあった。見直したことで、適切に避難できた学校もある。


⑨ 判決は、学校に過大な責任を負わせるのではないでしょうか?

管理下で児童生徒の安全を確保することは

学校の「根源的義務」です。


宮城県学校防災体制在り方検討会議報告書(令和2年12月)でも「判決は、決して教育委員会や学校に対し不可能なものを求めているものではなく、教育委員会や学校が、災害から児童生徒等の生命や身体の安全を確保するため、学校保健安全法に基づき当然負うべき『安全確保義務』そのものである」とあります。子どもにとって学校は、たまたま通りかかった場所ではありません。

事故をふまえ、学校が取り組むことは長時間の会議や研修、書類の作成

ではありません。「避難場所を決め、みんなで確認しておく」。

やるべきことはとてもシンプルです。

⑩ 大川小学校は、なぜ保存するのですか?

地域や先生に見守られ、子どもたちが楽しく学び遊んだ

学校があったこと

あの日、その多くの命が失われた事実を伝えるためです。


思い出の場所、未来への学びという遺す意義がある一方、見るのがつらい、費用がかかるという声もありました。どちらも大事な意見ですが、なかなか話し合う機会は作れず、行政や専門家も議論を避けがちでした。2015年3月、大川復興協議会は校舎保存についての集会を開催。その中で「全体保存」という地区の方針が示されました。保存・解体、双方の意見が交換される中で、中高生が母校を遺す意義について意見を発表したことは特筆されます。それを受け石巻市は、2016年3月市の震災遺構として校舎を保存することを決定しました。簡単に決めたわけではありません。その経緯もしっかり伝えていくべきです。

この場所で、何をどう遺し、伝えていくかの話合いはまだ十分ではありません。

50年後、100年後を見据えた取組みが必要です。

⑪ 校舎内は入れないのでしょうか。

現在は入れません。


校舎は、伝えるために遺しました。津波の痕や盛り上がった床、止まった時計など、その場に立って見ることで、あの日の状況がより伝わります。学校生活の様子も浮かんできます。伝承する上で大きな価値があります。

自由に立入りするのではなく、安全面、心情面を考慮し

ルール作りを進めていくべきです。

大川小津波事故訴訟とは?

訴訟の経緯


・2011年3月11日 東日本大震災

   2011年4月より、市と遺族の話し合いが続けられ、2013年2月には

  文部科学省が主導した検証委員会が設置された。

  検証委員会は踏み込んだ議論がほとんどないまま終了。

止む無く、23名の遺族は2014年3月10日、時効の前日に提訴し

   県・市の法的責任を問う

・2014年3月10日 提訴

  23名の児童遺族が提訴。 宮城県・石巻市の責任を問う。

・2016年10月26日 一審判決(仙台地裁)

  津波の到達は予見でき、少なくとも7分前に避難が開始できた。

  地震発生後の過失を認定

  ※当日の行動が問われ、事前の備えの不備については問わず。

    県・市は判決を不服として控訴

    問われるべきは当日のことだけではないとする原告側も控訴

・2018年4月26日 二審(控訴審)判決(仙台高裁)

  平成16年の県の想定をふまえ、平時から十分に備えていれば

  地震後早い段階で安全な場所への避難ができた。

  地震発生前の防災対策の不備を認定

  ※当日の教職員の責任ではなく、市・学校が事前になすべきことを

   していたかどうかが問われた。

    県・市は判決を不服として上告

・ 2019年10月10日 最高裁が上告を棄却・判決確定

  

校舎は、伝えるために遺しました。津波の痕や盛り上がった床、止まった時計など、その場に立って見ることで、あの日の状況がより伝わります。学校生活の様子も浮かんできます。伝承する上で大きな価値があります。

訴訟について


学校管理下でこれほど多くの教員・児童が犠牲になった事故は過去に例がありません。今後の学校防災を考える上で、また、全国各地の学校や地域で、同じことが二度と繰り返されることのないよう、検証が必要です。

2011年4月より、市と遺族の話し合いが続けられ、2013年2月には文部科学省が主導した検証委員会が設置されました。検証委員会は踏み込んだ議論がほとんどないまま終了。23名の遺族は14年3月10日、時効の前日に提訴し、県・市の法的責任を問うことになりました。一審では、主に津波当日の教職員の判断・行動が問われ、原告勝訴(2016年10月26日)。県・市はすぐに控訴し、問われるべきは当日だけではないとする原告側も控訴しました。控訴審(仙台高裁)で問われたのは事前の備えです。県の想定がありながら、すべきことを怠った石巻市と宮城県の責任が明らかになり、控訴審も原告の勝訴(2018年4月26日)。判決文は340頁以上にも及びました。

県・市は上告しましたが、2019年10月10日最高裁判所が上告を棄却し、高裁判決が確定。事前防災、組織的な取り組みの過失が認められた歴史的な判決となりました。


これで終わりではなく、これからが始まり。

教訓にならなかった、と言わせないために。

過去の事実は変えることはできない。でも、未来を変えることはできる。

控訴審判決

2018.4.26 仙台高等裁判所 


⑬ 有識者はどのような見解?

「災害へ防備」や、「組織の責任」、そして「⼀人ひとりの命の重み」につき、司法のスタンスを大転換させる歴史的な判決です。当事者にとっても、社会全体にとっても、ポジティブな影響を与える判決です。私は、司法に対する希望を⾒直すことができました。なぜ、そんな結果が導けたのか︖言うまでもなく「一⼈ひとりの命の重み」を重視したからです。74人の児童の命が、裁判官に対し、今までの因習から脱し歴史を好転換させるインパクトを与えたことは間違いありません。すなわち、大川小で犠牲となった⽅々が、これから起きる将来の大災害から多くの命を救うことになるわけです。これこそ憲法76条がすべての裁判官に託した「その良⼼」の具体化でしょう。

弁護士・ 津久井進氏


裏⼭がどうかという議論よりも、もっと根本的なところで子どもたちの命を預かる者の責任と覚悟を問う、司法ここにありとも感じる判断が示されています。ハザードマップとは何かというところもしっかりと言及しています。この判決を得たわれわれは、この判決、規範を最大限に⽣かして、⼆度と同じような被害が⽣じないように個々が努⼒しなければなりません。

弁護士・永野海氏

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